ウィーン番外編 プリンツ・オイゲン公
2006年 04月 19日
もし私がウィーンに行くのなら、絶対に行きたい場所がありました。
わたしのアイドル、プリンツ・オイゲンがフィッシャー・フォン・エルラッハに作らせた夏の離宮ヴェルデヴェーレ宮殿です。
今回は、テーマのある旅でもあり、スケジュールの都合でプリンツ・オイゲン関連のテーマは諦めざるをえなかった中、唯一見ることができたのが、このサヴォイア公子オイゲン公像です。
なんと言っても、わたしの長年のアイドル!!
興味の無いRさんまで巻き込み、大騒ぎで写真撮影をしている、変な日本人が二人・・・・さぞかし、ウィーンの方々には変な光景に見えたことでしょう。
シシィやモーツアルト、マリア・テレジアやマリー・アントワネットが目当てな日本人は多くとも、プリンツ・オイゲンをみてキャアキャア言ってるというのは・・・・・
けれども、私はこのオイゲン公像を満足気に見上げ、暫し、プリンツ・オイゲンの数奇な人生に思いを馳せていたのであります。
では、プリンツ・オイゲンはどんな人物なのか・・・・と言いますと、オーストリアでは、国民的な英雄として有名ですが、実はフランス貴族で、その生い立ちもかなりユニーク。
なんといっても、彼の母オランプはルイ14世の初恋の人で愛人でもあり、オイゲン公の父親はスワソン伯ではなく実はルイ14世では・・・・と囁かれていたというのですから。
オイゲン公の母オランプ・マンシーニは、当時ルイ14世の宰相だったマザランの姪で母親や兄弟姉妹とともに叔父からイタリアから呼び寄せられ、宮廷でルイ14世とは幼友達として育ちました。
年頃になり、二人は恋人同士になり結婚を望みますが、王家の悲願「絶対王制」の成就の為にそれぞれ別の相手と結婚します。
そう、ルイ14世はスペイン王女マリア・テレサと結婚しますが、その後も二人の関係は続き、オランプの為にスユル・アン・タンダント(大奥総取締役)の要職も用意され、愛妾として宮廷に君臨しました。
・・・・が、その後、ルイ14世の寵愛はラ・ヴァリエール夫人からモンテスパン夫人へと移り、失寵しても要職はそのままだったオランプは、権勢欲の強かったモンテスパン夫人に目の敵にされ、国王毒殺の嫌疑を受けて国外逃亡を余儀なくされます。
一方、後に戦に出れば常勝を続けハプスブルグ帝国の守り神とまで崇められた、オイゲン公のフランスでの青年時代は、青白い顔をした貧弱な青年・・・・・・にすぎませんでした。
本人は、軍人への道を強く希望していたにも関わらず、オイゲン公の希望に「こんな貧弱な小男が軍人で大成するなんて、夢物語!」とばかりに周囲は一切耳を貸さず、僧職につくのが良いと考え軍人への道を閉ざしていたのです。
そんな宮廷での冷遇に、我慢できなくなったのか、ある日、オイゲン公はコンティ王子とともに家出を企てました。
向かう先は、ウィーンの皇帝軍。
そう、オイゲン公はウィーンの宮廷に仕え、オスマン・トルコ軍と戦いたいと思っていたのです。
しかし、まあなんという無鉄砲さでしょう!
大叔父はフランスの宰相、母は愛妾という、フランス宮廷とは常に緊密な関係を保ってきた一族でありながら、政治的に緊張関係にあり、いつ何時戦争の対戦国になるかも知れない国の宮廷に仕えてまで、軍人になる道を模索しようとするとは!!
けれども、この家出から、19歳で竜騎兵連隊長の地位を得たのを皮切りに、破竹の勢いで大活躍を続け、戦場から戦場へ休む間もなく戦い勝ち続け、「オーストリアの大黒柱」と呼ばれるまでに尊敬を受け、富と名声を得ます。
死ぬまで独身を貫き通し、稼いだ大金をつぎ込んで、夏の離宮と冬の離宮、二つの城を作らせました。
夏の離宮、ベルデヴェーレとは見瞠邸の意味で、旧市街を見下ろす高台に位置しています。
戦場から戦場へ移動し、戦い続けたオイゲン公は、暫しの憩いの一時、見事な眺望を見下ろしながら、一体何を思っていたのでしょうか。
次にウィーンに行くことがあれば、その時こそは「マイ・アイドル プリンツ・オイゲンを巡る旅」にしたいと思っています。
by infanta_ayan
| 2006-04-19 01:55
| 旅日記